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家族制度について考える その9 [家族制度について]

 それからもう一つ道徳教育の中に取り入れてほしいのは、歴史特に日本史教育です。
その理由としては前回も触れましたが、まず我々自身ご先祖様から遺伝子そして築いてこられた文化を引き継いでこの世に存在しているのですから、我々が次世代以降に伝承するためにもしっかりと勉強し吸収していかなければなりません。
 もう一つはそして先祖のされてきたさまざまな功罪をその時代背景と共に辿ってみることによって疑似体験し、その経験を現在及び将来の行動に役立てようという、歴史の勉強自体が生きた教材となるからです。
 三番目は、先祖、先人を敬う文化を作ることによって、家庭、社会での紀律が確立され、社会の安定につながるからです。
東南アジア諸国特に中国や韓国は歴史教育に力を入れているそうです。
 歴史教育については、第二次世界大戦前の軍事政権によって、史実を歪めた解釈により情報操作をした忌まわしい過去がありますし、また北朝鮮などで対日感情がいつまでも好転しないのは、ある側面からのみ見た歴史認識しか国民に示さないことが原因の一つといわれています。
 そういう点で歴史教育を行う場合には、正しい歴史認識に基づいた教材を使用しないと、却って全体主義の復活、情報操作による洗脳となりかねませんので注意が必要です。
 しかしそういう点を十分に注意すれば、歴史の勉強は先代の足跡を辿る旅であり、その足跡は大いに今後の我々の行動指針にとって参考となるものです。
 また家庭にあっては、歴史の勉強をすることによってご先祖様があったから今の私たちがこの世に存在し、それなりの生活が出来ているのだ、と思えば自然と先祖を崇拝する感情が芽生えてくるでしょう。特に子供への教育には、先祖との繋がりを教えることは何よりの生きた教育となるはずです。 
そして今生きている私たちは、そもそも先代の礎の上に存在しているのだ。また人間が抜群の学習能力と記憶力を持っていることは、とりもなおさずその能力を発揮すべくこの世に生を受けていることを思うとき、

 生かされている自分、そしてその命の尊さに、自然に感謝の念で胸が一杯になるのではないでしょうか。

 命の尊さを教えることこそ、子供にとって最良の教育であると私は思うのです。

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家族制度について考える その8 [家族制度について]

 人間はこの地球上に生息するあらゆる生物の進化の頂点に立つ存在だと言われています。
それが証拠に人間には他の生物に比べて圧倒的な学習能力があり、記憶力があります。
 神がわれわれ人間をして、この地球上でそういう存在に仕立てて下さったのです。
 もっと分かりやすく言えば、我々人間はそういう能力を持ってこの世に生まれてきた、ということは、その能力を十分に生かすようミッションを与えられてきたともいえるわけです。 

 学習能力というのは、簡単にいえば前の人がした失敗を次の人は繰り返さないということです。記憶力も前の経験が脳に記憶されて、次の行動に役立てるべく与えられた能力です。
 その学習能力、記憶力を私たちは十分に生かしきっているのでしょうか。

古代から度々繰り返される戦争などは、如何に人間が先代の経験を生かしきっていない、つまり学習していないことを端的に表すものではありませんか。

 私は人間が人間らしくあろうと思うのなら、先祖の業績をつぶさに観察し、良いものは残し次世代以降にキチンと伝承し、悪い事は反面教師の教材として改めてゆくことが必要だと強く思っています。
 そのためにはまずお年寄りの人生訓を肉声で聞くことが必要です。

加齢臭がするからイヤだ、ウロウロされてうざったい、などと言わず先人の人生の先輩の貴重な体験話をじっくり聞こうではありませんか。尊敬の念をもって。
 だって若い人にはできない、あるいは若者がこれからやろうとしている経験をお年寄りは既にしてきているのです。苦労してきているのです。まさに生きた教材ではありませんか。
 そんな事を言ったって自分が経験しなければ、本当のところは分からないではないか、との反論を受けそうですが、では聞きますが、経験がすべてというのであれば、痛いという経験をするためにあなたはわざわざ車の前に飛び込んで怪我をしますか。
 そんなの痛いに決まっているからするバカはいないではないか、と言うのであればそういう時だけ先人の知恵を流用するのか、それならば他の経験をしていないことだって同じでしょう、と切り返したくなります。
 人間には想像力も備わっているのです。自分が経験をしていなくても、穂人の経験から想像するつまり疑似体験ができるのです。
 映画、テレビでも私たちは、作り手の意図に沿って、役者に自分を投影させて疑似体験をしているのです。だから聞く耳を持っていれば十分疑似体験ではあれ、経験ができるのです。
 先人の知恵をもっと拝聴し自分の経験の一つに組み込めれば、自分の経験量が格段に上がり、それだけ知恵者になれるのです。
 お年寄りも自分たちがもっと社会に必要とされている、尊敬されているとなれば、生きる気力ももっと上がり、生き生きとした老後を送ることができるでしょう。
 そしてそうしたお年寄りの老後を観察している我々は、あと何十年後には自分たちも若い人に尊敬され惜しまれる存在になっていくのかな、なったらいいなと老後に希望を持つことができると思うのです。まして子供は親のとる行動をよく観察していますから、老人を尊敬し、いたわり大切にするその姿を見ていれば、自然と同じ行動をとるようになるのではないでしょうか。
 お年寄りから学ぶべきことはいくらでもある、それが道徳教育につながるという話をしました。


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家族制度について考える その7 [家族制度について]

 もう一つ道徳教育のカリキュラムに加えてほしいのが、親を含めた先人を尊敬する気持ちの醸成です。これも資本主義経済のひずみですが、忙しい世の中で人の気持ちに余裕がなく、また日進月歩の技術の進歩にお年寄りがついていけないこともあって、若者は年寄りを邪険にする風潮が強く見られます。
 市場では技術革新の波についていけない企業は市場からの撤退を余儀なくされますが、その市場の論理をそのままに新しい文化についていけない年寄りは去れ、とばかりに老人を隅っこに追いやろうとしています。そこのけ、そこのけ、若者が通るとばかりに。
 確かに新しい文化は若者を中心にどんどん良いものが生まれれば良いとは思いますが、問題なのは社会全体が新しいもの、つまり若者にばかりスポットを当てすぎていることです。その結果日の当たらない老人をバカにする風潮が世間に蔓延しています。
 家庭でも核家族化が進んでおり家庭にはお年寄りはいませんから、老人と身近に接する機会は少ない。そうして育った子供たちが、お年寄りを尊敬しなさいと言っても無理でしょう。だって社会全体が劣り寄りを邪魔者扱いしているのですから。もう用済みと言わんばかりに。
 その点、「アメリカインディアンの教え」にもあるように、昔の生活を守り続けている 文化圏であるほど、家長、長老、先人が尊敬されています。彼らは生活の上での知恵者であり、文化の継承者であるからです。
 確かにインタ-ネット社会が到来し、情報がインタ-ネット等で簡単に手に入る時代では、先人の知恵がそれほど必要なのか、といった疑問も出てくるでしょう。しかし情報の中には、活字ではなく、口頭や態度で伝えなければ伝わらないものがあります。
 情にからむ部分のやりとり、たとえば愛情、友情の表現の仕方、親子間の愛情などはフェイストゥフェイス、つまり生身の人間同士が相対しお互いの感情をぶつけ合っていかなければ到底表現できないし、伝わらないものです。
 人間は感情の動物です。合理的な判断をする一方で、非常に合理性とは相反する行動をとるのです。特に情がからむ部分については。
 今の時代は経済が主体となって動いている世の中なので、そうした経済に関する情報の収集はインタ-ネットなどで取り出せば良いしそれが最も合理的、効率的です。
 しかし情がからむ部分、愛情、友情などは生身の人間同士のぶつかり合いの中でしか伝わらないのです。ブログ、メ-ル、携帯電話等でのやり取りは、単なる情報交換の程度であれば十分有効ですが、込み入った話となればやはりお互いが直接会ってコミュニケ-ションをとるべきでしょう。文明の利器にも限界はあるのです。
 親子の関係は思い切り情の部分ですし、先人の知恵特に家訓、先祖のこと、地元、近隣との付き合い方などの重要な事柄は、お年寄りから直接口頭で伝え聞くしか十分伝わらないものです。
 お年寄りは人生の達人であり、その達人の貴重な人生訓を聞かない手はないと思うのです。


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家族制度について考える その6 [家族制度について]

 道徳教育、というとすぐに国粋主義とか軍国主義の復活などを連想される方もいらっしゃるとと思いますが、私はそんな事は毛頭考えてもいません。
 あくまで道徳教育とは、人としての道を教える教育であり、個人主義の美名のもとに極端な利己主義に走っている現状を、人に対しても気配りのできるように鍛え直す教育です。
 人間だれしも自分が一番大切であることは疑問の余地がありませんが、自分を大切にした上で、社会との関わり合いの仕方を躾けていくことが必要です。
 自分を大切にする、というのは言葉で言うのはやさしいのですが、案外難しいものです。
自分に自信が持てないために自暴自棄になり、すねたり、落ち込んでウツになったり、逆に虚勢を張って尊大なフリをしたり、さまざまな屈折した行動をとるものです。

自分を大切にするということはまず、自分をありのままに見つめることです。
良い自分も悪い自分もすべて自分として受け入れる、その勇気が必要です。

 誰しも人より劣っている部分、自分の中のイヤな性格など認めたくない部分も数多くあるでしょう。しかし、そういう自分も人間らしくていとおしいと思えなければならないのです。
 人間誰しも程度の差はあれ、心に屈折したものを持っているのですが、その屈折感が強いと自分を傷つけるどころか、他人も傷つけてしまいます。ですからその屈折した性格は極力小さいうちに改善していかなければなりません。
 すべてを受け入れる勇気を持つことは大変ですが、私なぞは自分のイヤな性格について、この性格も含めて俺なんだ、と開き直ってしまいます。無理にイヤな性格を矯正しようとするから、どんどん自分が見えなくなってしまうのではないのでしょうか。
 心理学の本でも教育関係の本でも、短所、欠点を直すより長所を伸ばせ、と説いています。
長所と短所は裏表の関係なので、短所を矯正すると長所も薄まってしまい、自分の個性が失われるからでしょうか。それよりも私は短所を無理やり矯正することによリストレスが溜まっていくことが心配です。
 また完全無欠な人間はこの世に存在しませんし、没個性的な人は付き合っていても面白味に欠けるものです。人は少々欠点のある人の方が付き合っていて面白いし、第一相手が安心するのです。わざとぼける必要もないでしょうが、欠点もその人の個性の一つですから逆に大切にする位の開き直りがあってもよいと思います。
 とにかく自分で自分を受け入れることさえできれば、他人に対して争う気がなくなってきます。
それこそ自分は自分、人は人、と一歩下がって冷静になって他人を見ることができるからです。
 ですからムキになって人と争う気にもならない。何故なら相手の優れている点があり、自分の方がその点では劣っていても、それが彼の個性であり、それが自分の個性だからです。
 他人との争いのきっかけは、自分の中でのイヤな性格を指摘されたり、くすぐられたりしてカッとなってしまったり、自分を優位に立たせるために他人の弱点を攻撃して足を引っ張ったり、他人との競り合いに端を発するものが殆どではないでしょうか。

 そうやって他人との相対関係を意識しすぎているから、いつも自分の地位、立場に不安感を覚えオドオドしているのです。

 人は人、自分は自分、と線を引いてしまえば他人との無用な争いに興味を示さなくなります。
 他人を受け入れるというのは、そうした自分をありのままに見て、自分に対して何のわだかまり、こだわりのない精神状態でこそ初めて可能になるのではないでしょうか。
 他人の成功する有様を見てうらやましく思うのはよいとしても、あの野郎うまくやりやがって、何でこの俺がアイツより成功しないんだ、あんな奴失敗して泣けばいいんだ。と人の失敗を暗に期待するような心根では、まだ他人と自分との相対関係に縛られていると言わざるを得ません。 
 前にも触れましたが、「魔訶般若波羅密多心経」の中の「心無罣礙」は、わだかまりのない心です。事実は事実として、冷静に受け止める 。そこに邪心が入っては自分の中の心眼がゆがんでしまい、物の見方がねじ曲がってしまうのです。
 早く他人の成功や幸せを素直に受け入れ、ごく自然に賞賛できるようになりたいものです。
そして、その他人の成功を横目で見ながら、自分は自分なりに頑張れば良いのです。
 といっても私は競争を否定するものではありません。というより人間社会で競争がなくなることはありえません。何故なら人間は生物であり、生物はみなその遺伝子がより強さを要求するからです。
 ただ何でもかんでも自分と他人とを同一の土俵で見ようとせず、お互いの領域、個性、能力の中で最善を尽くせば良いのではないか。他人が持っている強みが自分にはない替わりに、自分には他人にはない強みがある。それを生かせばよいのでは、と思うのです。
 今の日本の競争社会は、各人を全て同一の土俵に立たせて競わせようとしています。だからどうしても勝ち組、負け組が出てしまうのです。社会が画一的な判断基準で人を査定してしまう傾向は各人の個性を押し殺すどころか、勝ち組負け組をはっきりさせてしまうので、無用な戦いを避けようと思っていても否応なしにその競争社会に巻き込まれてしまうという点で大変危険です。
 ですから今の世の中で、冷静な目、自分を客観視する目、さまざまな事象をありのままに見る目を養い、維持するのは大変だとは思いますが、自分と他人とを客観視する気持ちの余裕があれば、無意味な争いで他人をかき回し、自分自身も自分の興奮した感情に振り回されることもなくなるでしょう。他人に対してもっと寛大な態度をとることができるはずです。
 私は各人が精神的に自立した人間になってもらうそうした道徳教育を粘り強く根気強く、幼児から中、高校教育までやっていただきたいと切望しています。

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家族制度について考える その5 [家族制度について]

 現代の日本社会が何故かくも欲望の野放図状態に陥ってしまったのでしょうか。

私はその最大の原因は、道徳教育の欠如にあると確信しています。

 明治維新後、日本は西洋の列強国と少しでも早く肩を並べるべく、富国強兵及び西洋文明の積極的な取り入れを行いました。そして第二次世界大戦の敗戦を機に軍国主義を全て否定し、平和を希求した現日本国憲法が出来たことは皆さんご承知の通りです。
 と同時に敗戦を機に新憲法、民法制度の下、基本的人権の尊重、言論の自由、家督相続から平等相続への移行など国民一人一人の権利が戦前に比べて大幅に拡がり、自由で平等な社会に一挙に移行しました。
 そして戦後復興での急激な高度経済成長もあって、車、テレビ、洗濯機など人々の周りには便利で快適な物が増え、人々の暮らしは物心両面にわたって戦前とは比較にならないほど、自由で快適になりました。
 その劇的な変化が僅か数十年の間に起こったのです。
自由で縛りがなくなり、しかも便利な物が次々と誕生していった昭和の後期は、物心両面にわたって豊かで向かうところ敵なし。ジュパン.アズ.NO.1と言われ日本がまさに世界を牛耳ったとまで言われた、狂い咲きの時代でした。
ここまで短期間に良いことづくめとなれば、人間浮かれない方がおかしい。
 事実あの頃の日本人は-億総白痴状態でした。
それでも平家ではありませんが、驕れる者久しからず。うたかたの夢ではありませんが、わが世の春を謳歌していた日本はバブル崩壊と共に、砂上の楼閣のごとくもろくも一瞬にして崩れ去ったのでした。
 そして宴の後に残ったのは、難題ばかり山積されました。
年金問題、人口減少社会、超少子高齢化社会の到来、一挙に低成長化したことによる国家、地方財政の逼迫、そしてあれだけ高度経済成長を支えてきた核家族制度は一転親子断絶をもたらしました。
 どこもかしくも戦後の自由主義制度の負の側面が一挙に顕在化し、社会不安が日本全体を覆い尽くす勢いで、どこから手を付けて良いのか分からない状態に陥っています。
 しかし私は思うのです。その種火はずっと前からあったのだと。
因果応報の字の通り、全ての事象には原因があり、それが結果に結びつきます。
 人間うまくいっている時には、何をやってもうまくいくものです。それが日本経済の場合、昭和60年から平成元年までの4年間がそのピ-クであった。あとは急坂を転げ落ちるように落ちていきました。
 家族制度についても、核家族制度は資本主義経済にあって、大量に労働力を供給するシステムとしては最大限に機能したけれども、その副作用は家族の断絶を招き、その影響が特に子供に顕著に出た訳です。
 カギっ子、と言われ両親が働きに出て、家に帰っても誰もいない家庭。親子の生活のリズムがかみ合わず、いつもすれ違いの生活を送る家庭。そんな家庭でどうやって子供と十分なコミュニケ-ションを図っていかれるのでしょうか。どうやって子供に人としてのあり方、友達とのそして社会との付き合い方を教えてあげられるのでしょうか。
 家庭にあっても経済合理主義が支配し、愛情、スキンシップなど子供にとって一番必要なものが欠如している状態が長く続けば、子供も愛情飢餓になり、人間不信になってウツ病になるか、それとも人に過大な愛情を要求する自己中心的な大人に育っていってしまうのです。
 そこには人に対して寛大でいられる余裕のある人は殆どいません。いつも神経をがピリピリさせて苛立っている、自己愛が強く常に自分の事しか考える余裕がない、そんな人が大量に生み出されてしまうのです、
 そして物質的には豊かでも精神的にはスキマ風が吹いている青少年時代を送った子供達がやがて結婚し、親になって子供を教育していきます。
 愛情飢餓で育った親が、子供に対して正しい愛情を注いでゆけなくても不思議はありません。
子育てに悩み親自身がノイロ-ゼになることも珍しくありません。何故なら親自身、その幼少時代から自分の思うとおりにならないことは少なく、忍耐力に欠けていたから、大変にストレスのたまる育児についていけなくなったからです。
 そうかと思うと、親が子供に過度の期待をかけ、子供を押し潰そうとしているケ-スも多く見られます。そうした過剰期待の悲しい結末に子による親殺しがあります。
 本当に教育は怖いものです。日本全体が経済成長に浮かれている間に、サイレントキラ-のごとく徐々に子供の心を蝕んでいたのです。そして気がついた時には、子供の気持ちは荒みきっていました。これが今日本全体で起こっている様々な不幸な事件の主原因ではないでしょうか。
 さきほど触れましたように、日本全体が資本主義社会、自由主義社会の負の遺産が次から次へと顕在化し手がつけられない状態になっています。
 では何から手を付けるべきか?

私は、何を置いてもまず教育の立て直しが必要であると確信しています。
それも家族制度の在り方にもメスを入れた道徳教育の導入。

 勿論即効性はありませんが、数十年先に必ず劇的な変化が現われると思うのです。
時あたかも韓国にせよ、中国にせよ、インドにせよ諸外国特に近隣アジア諸国は、日本の明治維新後のように国力増強に取り組み、その柱として子供教育に非常に力を入れています。
 わが日本は、経済においては十分物質文明を謳歌してきたわけですから、今こそその間に忘れ去られてきた道徳教育に最大の力を注ぐべきでしょう。それこそ国を挙げて。
 
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家族制度について考える その4 [家族制度について]

 邪心については、仏教の教えでは滅却するよう説いています。
私は浅学のため、邪心と人間の欲望とはどう違うのか、未だ区別がつきません
 私の解釈では、人間の欲望は限界を知らずそれがために己の欲望を追求するあまり、他人を押しのけ個人の利得のみを追い求める大変に性質の悪いものである。欲望の追求には他人を犠牲にすることも厭わず、それがよこしまな心、邪悪な心根につながり、結果己の欲望を追及していくと邪悪に満ちた心となる。
 確かに人間の欲望には際限がありませんから大変に性質の悪いものであることは間違いないと思います。それが証拠に僧侶はその始末の悪い欲望をできるだけ遠ざけるべく、人里離れた所で修行をし、欲望に目のくらんだ煩悩の克服に躍起となっていました。
 しかし凡人は、普通の人はそこまで己の生活そして時間を犠牲にできないわけです。
そこまで頑張らなければ救われないでしょうか。
 私は欲望は両刃の剣であると思っています。
 人間は生まれながらにして欲望がある。何故なら生物はすべてより強い種になるべく絶えず追い求めているのであり、より強くなることは生命そのものが欲していることなのです。人間も当然その例外ではなく、というより生物の最終進化形である人間は、強くなることへの欲求は他の生物に比べてより強大であると思います。
 欲求5段階説ではありませんが、食欲、性欲といった種の最低維持の欲求から始まって最後は自己実現欲に至る欲求です。
 ですからお坊さんの説くところを突き詰めていくと、生命そのものに対する否定になってしまうのではとも思えてしまうのです。勿論お坊さんの真に説くところは、欲望は底なし沼のように際限がなく人を傷つけてしまうから、欲望を最大限に抑えることを提唱していると思われます。
 欲望が際限のないことは認めつつも、それによって人間社会がはるかに便利になってきた功績は十分あるわけです。「必要は発明の母」と言われるように人間は快適なもの、より便利なものを追及してきたからこそ、サイエンスが発達し、資本主義社会が発達してきたわけです。
 ですから私はこう思っています。

 欲望をうまくコントロ-ルすることができればよいのではないかと。

 今の日本は物質文明の最盛期で巷はまさにモノ、モノ、モノであふれかえっています。殆どのモノ、サービスはお金で買えますから、必然的に拝金主義になってしまうのです。
 そういう今の現状は、人間が己の欲望に振り回されている、踊らされているだけです。
自分の心が主体でなければならないのに、欲望が主体となっている。まさに主客がアベコベになっている状態です。
 私は小さい頃母から何度も言われた中で特に印象に残っている言葉があります。
それは、人の心の中には良心と悪魔がいる。決して悪魔のささやきには乗ってはいけないよ。と。
 この悪魔こそ己のあくなき欲望であり、それが邪心につながるということでしょう。
 対して良心は、本来の己の姿、心根であり、己を正しい道に導く徳のある心です。
皆さんもこの良心と悪魔の存在は気がついていることと思いますが、私は幼いころからいつも強く意識してきました。
その結果、悪魔のささやきがあっても慌てることなくその言い分を聞いたうえで、最終的に良心に問うて、自分の行動を決めていました。
 要は悪魔のささやきに振り回されなければ良いのです。人間の欲望も暴走させず、うまくコントロ-ルすれば欲望が己を高めてくれることもあると思うのです。
 鵜飼が鵜をうまくコントロ-ルするように、欲望を適当に遊ばせて、頃合いを見計らって引き揚げれば良いのです。

 主体はあくまで己の良心です。その基本線さえ踏み外さなければ、少々の遊びはあってもよいのではないかと思うのです。

 しかし世間で起きるさまざまな不幸な出来事を見ていると、残念ながら悪魔に魂を売ったことが原因としか考えられない事件があまりにも多いことに愕然とする思いです。
 特に子供、若者の無軌道ぶりは目を覆うばかりです。まだ人としての正しい道を見つけられずにさまよっている子供、若者に対して、しっかりとした大人がきちんと導いてあげなければなりません。彼らは自分の頭の中、心の中が整理されておらず、混沌とした状態だから、容易に悪魔のささやきに無防備に乗ってしまうのです。
 幼児そして青少年教育の重要性がここにあります。人間としての基礎、骨格が作られるこの時期にこそ、またこの時期だからこそ何にも優先して子育てをしっかりやらなければなりません。 それも単に知識を詰め込む教育ではなく、人としてのあり方、人としての生き方を教える情操教育、道徳教育です。
 知識の詰め込みは後からでも出来ます。しかし情操教育、道徳教育は人格が固まる前しかできない。
 ですから私は家では一番子供と接する時間が多く、子供に与える影響力が最も強い母親による教育が最重要であると思いますし、そう考えると必然的にわが子が幼児期そして思春期が終わるまでは、女性が職場に出る機会は自ずから絞らざるを得ないと思うのです。
 もし不幸にして経済事情、家庭の事情等で母親が主力になって働かざるを得ないご家庭では、祖父、祖母が孫に極力寄り添って、母親のできない部分を十分に補ってあげることが必要であると私は思うのです。

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家族制度について考える その3 [家族制度について]

 加藤諦三氏の著書「アメリカインディアンの教え」は、人間としての生き方を説いたものですが、各個人個人が精神的に自立した存在であることを強調しています。
 私はこの著書を何十度読んだことでしょうか。そして親が精神的に自立した大人であってこそ初めて、子供に対しても愛情深くしっかりとした教育をしていけるのだ、とこの著書から深く感銘を受けました。
 ″精神的に自立″とは、結構キビしい言葉です。かくいう私もとても弱い人間で、いつも他人の目、評判を気にしていますし、困ったことがあればすぐに人に依存したくなります。
 ただこの場合の依存とは、人に頼るな、仕事を任せるなといった意味ではなく、精神的にベッタリと人に甘えたり、人のせいにしたりするという意味です。
 すべて自分に自信がないことの表われです。だからいつもクヨクヨしていますし、人が私を認めてくれないと憤ったり、イライラしたりします。自分がこういう劣等感が強い人間であるために自己愛が強くなってしまい、それがために他の人に対してまで愛情を注ぐ余裕があまりありません。
 こういう人間が子供を正しく導けるのでしょうか?親が偏屈だったり虚栄心が強かったり、嫉妬深かったりその心が病んでいたら、その影響が子供に出てしまうことも加藤氏はその著書の中で強調されていました。

自分自身の気持ちが平穏で満ち足りている。
何事にもこだわらず、動揺もしない。
ありのままの心を持ち、全ての事象をありのままに受け止めること。

 自分は気の弱い愚かな人間です。まさに小市民を地で行くような。
そんな私ですが、いつも変わらねば、少しでも精神的に自立し、真の大人に近づけるように。
と思って、自戒の意味を込めて、何ヶ月かに一度はこの著書を手に取り、自分の最近の言動を振り返っています。その都度改めて自分の愚かさ、軽率さに反省しきり。
 一時テレビでも流行りましたが、「反省だけならサルでも出来る」のでありまして、ちっとも改善しない自分の精神の幼さにあきれるばかりです。
 私は敬虔な仏教徒ではありませんが、母が15年前亡くなって以来、「魔訶般若波羅密多心経」だけは殆ど毎日欠かさず読んでいます。そのお経の中で私が気に入っているフレ-ズがあります。   

一つは「色即是空、空即是色」です。

 これは色つまり形のあるもの、これはすなわち空つまり空虚で形がない。逆に空つまり形のないものがすなわち色つまり形がある。ということです。何を馬鹿な事を言っているとお思いでしょうが、これは簡単に言えば形のあると思っていたものが実は形がなく、逆に形のないと思っていたものに形がある、すなわち人の心のありようによって、あるともないともどうとでも解釈できるつまり見えたり見えなかったりするということです。
 逆にいえば人の心は曇りガラスのように濁っていて物や事象を正しく見ることができない、色メガネで曲がって見えてしまったり、或いは全く見えなくなってしまう。
 そしてそのメガネを曇らせているのは他ならぬ己の邪心にある。、だから真実の目でモノ、事象を見られるように、己の心を曇らせないようにしていなければならない、という教えです。

もう一つは「心無罣礙」です。

 これは、罣礙の無いつまりわだかまりのない心という意味です。
 人間は誰しも心に多くの邪心を抱えています。名誉欲、征服欲、虚栄心、過度な自己愛など。
人と競争することが当たり前の今の日本社会の現状では、邪心をなくせと言ってもそれは不可能に近いほど難しいことでしょうが、邪心にまみれて生活していると、己の自己愛、虚栄心、支配欲などを満たすため人を傷つけ、人を踏み台にしても何の罪悪感も持たない、悪く言えば鬼畜のような根性になってしまうのでしょう。
 もっと怖いのはそうした邪心にまみれた大人が、わが子に正しい人としての道を説こうとしてもできるでしょうか?
親が叶わなかった夢、無念を晴らすべく、わが子に過剰な期待をしている親は数多くいます。
 私も十分その心情はお察ししますが、そうした社会に対して復讐の怨念を持った大人の気持ちを子供たちはどう受け止めるのでしょうか。
 私自分、自分自身に無念な思いも相当あります。子供に頑張ってもらってその思いを晴らしてほしいと考えることもありますが、加藤氏に言わせれば、それは子供をして自分の思いを遂げようとする親のエゴだけで、子供の個性を何ら考慮せず子供にとって足かせになるだけであると断罪しています。
 この記事を読んだとき、自分はフ-ッとため息をつき、しばし目をつぶって己の本当の気持ちはどうなのか、と己に問うてみました。するとやはりそこには自分勝手な論理、己の虚栄心、征服欲を子供に投影させて自己満足を図ろうとしている大いなる邪心に気がつきました。そしてそんな自分の気持ちを満たそうとすることはあきらめました。
 「子は親の鏡である。」とも言います。
己の邪心を少しでも改めること、これしか子育てを上手にやっていく術はないようです。

 あと一つ私が気に入っているフレーズを紹介します。
皆さんもよくご承知の、相田みつを氏の残した数々の書簡のなかでのフレーズ。

しあわせは自分の心が決める。

今日はまた己への自戒を大いに込めて、生意気にも心のあり方についてコメントしました。 


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家族制度について考える その2 [家族制度について]

 第二次世界大戦以前は、日本の基本的な家族制度は家長を中心とした大家族制度でした。
その家長制度のひずみは、主に女性に過重な労働を強いることにありました。
 明治維新後、資本主義文明が日本に入ってくると、女性も男性と同様に扱うべきだという男女同権の考え方が急速に高まりました。
 女性を「家」という檻から解放し、女性にもっと自由を与えるべきだ、女性がもっと人間らしい生き方ができるようにすべきだ、という潮流が社会的に高まっていたところへ、第二次世界大戦の敗北によりアメリカ合衆国主導による財閥解体、家制度の解体、農地解放など旧制度の崩壊が一挙に進みました。
家制度の崩壊にさらに拍車をかけたのが、戦後の焼け野原からの戦後復興といわれる驚異の高度経済成長です。高度経済成長には多くの労働力を必要とし、「金の卵」といわれた地方からの若年労働力が大量に東京、大阪、名古屋などの大都市に移ってきました。
 そうした若年労働力を受け入れるために、大量のマンション、アパ-トが建設されました。
そして若年労働者が大量結婚して、いわゆる団塊の世代として日本経済をここまで牽引してこられたのです。
その家庭はほとんどが夫婦と子供数人のいわゆる核家族でした。地方に親を残してきているのですから当然そうなります。そうして大都市圏に若年労働力が集中した結果、地方は疲弊し過疎化が進みました。いわゆる二極化現象です。
 若い人は働く場がいくらでもあり、生き生きと働ける。特に女性は「家」という重い檻、鎖から解き放たれ自由になりました。
 今の日本女性がわが国の長い歴史の中でも、一番輝いているのではないでしょうか。
家から自由になり、経済力もある人が多くなってきました。お金と時間があるのですから思い切り自分のために使えます。未婚の女性が一番輝いているのも十分納得できます。
 しかし困ったことに自分が自由でありすぎると、束縛されることに耐えられなくなってしまう。
結婚を望まなくなる女性が増えてくるのも無理からぬことではあります。
 自由はどこまでも自由か?これを追及していくと、自分のために世の中が存在する、世界になってしまいます。
 自由にタガを嵌めないとキリがないのです。個人主義を野放図にしておくと、個人の欲望には限りがありませんから暴走してしまう。その結果自分のためにはいくら他人が犠牲になっても構わないというところまで行ってしまうのです。
 私は女性の自由化、男女同権そして社会進出に異論をはさむつもりは毛頭ありません、。
申し上げたいことが少々ズレてしまいましたが、私の言いたいことは核家族制度を見直しても、以前のような家長制度にもどることは決してないでしょうということです。
 これだけ女性が社会進出してなおかつ少子高齢化が進む中で、女性が今後も貴重な労働力として期待されていることも事実です。
 ただだからといって女性が社会の方にばかり目を向けていくことはできません。      特に結婚して母親の立場となってからは、子供の教育について中心的な役割を担うのは母親であり、だからこそ女性は子育てと仕事の両立という難しいかじ取りを強いられているのです。
 一般的にわが子が手のかかる幼児から、自我が目覚めて精神的に不安定な中学校を卒業するくらいまでの期間は、子供が特に親を必要としています。特に愛情面で。
 この期間に、二足のわらじを履いていかざるを得ないお母さんも多いでしょうが、願わくばこの期間は子供の教育に傾注したいと感じていらっしゃるお母さんも多いのではないでしょうか。
 現実問題として、母親が仕事場を離れられない以上、子供の教育をサポ-トしてくれる人が必要となってきます。保育園、幼稚園の先生、学校の先生も一生懸命お子さんの教育に取り組んでいらっしゃいますが、前回でも触れたように愛情面でのフォロ-はやはり家庭が中心となってやらなければならないと思います。
 繰り返しになりますが、その意味でも三世代以上の家庭が住める住宅政策を推進し、お年寄りの知恵がもっと発揮できる、そして親子が断絶気味である現状を再びつなぎ合わせるためにも、老人と子供が同居できる世帯の構築が急務ではないか、という思いをますます強くしている私です。
 
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家族制度について考える その1 [家族制度について]

 私は現代日本の核家族化社会に対して、大変な危機感を持っています。
そもそも日本人は言うまでもなく農耕民族であり、それがために集団生活が必要とされました。
狩猟民族でも集団生活はありますが、農耕民族に比べればその集団生活の必要性は低く、また人類の歴史は飢餓との戦いの歴史でもあり、皆が肩を寄せ合って生きていかなければ、厳しい自然環境の下では生き抜いてゆけなかったのです。
 それが一転して、特に明治維新以降は西洋文化の導入そして資本主義の浸透により貿易量が格段に増えた結果、世界中からあらゆる物がたやすく入ってくるようになり日本は物で溢れる飽食、飽和の時代となりました。
こうして物やサ-ビスが容易に手に入るまさにコンビニエンスな時代が到来すると、人間は益々わがままになります。また辛抱が利かなくなります。

「お客様は神様」の今日では、サ-ビスの供給側が熾烈なサ-ビス合戦を繰り広げる一方、サ-ビスの購入側である消費者はお金さえあれば殆どの物、サ-ビスが手に入る、しかもよりどりみどりの世界。

 辛抱する必要がないのです。だから我慢することが余計つらく感じるのです。 
 それが如実に現われているのが人間関係です。

 貧しい頃我慢し譲り合って、肩を寄せ合って生きていた人間がお金を手にした結果、集団でいる必要がなくなった。何故ならお金さえあれば殆どのモノがてに入るから。これはある意味仕方がないことつまり必然と言えるでしょう。しかしこうして一人一人が集団から解き放たれてわがままになっていった結果、人間関係を維持するのに四苦八苦するようになった、家族関係でさえも例外ではありません。
 こうして物質文明のもたらした影の部分が今、社会問題として大きくクローズアップされるようになりました。
 こういう時代、モノやサービスで満たされ一見すると大変豊かな時代だと思われますが、人間生活を送っていく上での一番大事な、他人とのコミュニケ-ション能力、がどんどん衰えてきていて、共存関係の維持及び構築がだんだん難しくなっています。
 私は無理に我慢や辛抱を強いるつもりはありませんが、月並みですが若い頃忍耐力をつけてかないと、物心ついてからつまりある程度自我に目覚めてプライドが高くなってしまってからでは、教育も大変だと思うのです。
 今流行りのキレキャラは子供、若者のみならず中高年にまで広く蔓延しているようですが、特に子供、若者に対しては″鉄は熱いうちに打て″の諺ではありませんが、早くからの教育出来れば自我が十分確立する前の教育が肝心であると強く思う今日この頃です。
 ところがその一番肝心な時期に、両親ともに働きに出てしまっている。子供に我慢、忍耐、そして社会との他人との付き合い方を十分に教えてくれる両親がいないのです。幼稚園や保育園に入れてそれを補っているのではないか、との見解もあるでしょう。
 ただ大変失礼ながら、とても保育士さん、園長先生など幼稚園、保育園関係者で十分に一人ひとりの幼児に十分な情操教育を施すことは物理的に不可能だと思うのです。これは小学校以上になればもっと言えるのです。
だって保育士さん、学校の先生方は一人で何人もの何十人もの幼児、生徒を見ているのです。全ての幼児、生徒にきめ細かくケアすることは一人の力では到底できません。
 特に難しいのが愛情面です。愛情だけは両親、祖父、祖母から注がれる愛情にまさるものはありません。勿論保育士さんそして先生もありったけの愛情をもって幼児にそして生徒に接していらっしゃると思います。大変お疲れ様です。
しかし愛情を一人の幼児に生徒に集中するわけにはいきません。逆に平等な愛情をそれぞれの幼児、生徒に注いでいかなければなりません。
 前回で愛情飢餓について触れましたが、今の忙しい世の中では大袈裟にいえば誰もが愛情飢餓に陥っているのではないでしょうか。夫婦でも親子間でも、十分にコミュニケ-ションをとる時間がなくすれ違いの生活が長く続けば大人だっておかしくなってしまいます。
 まして幼児、子供は対処する術を知らず、一人深く傷ついていく。それがトラウマとなって自分のことしか考えられない大人に育っていく、こうした悪の連鎖を断ち切るためには何を置いても幼児、子供時代に愛情面を中心に子供と十分に向き合う家庭を作ることが一番だと思うのです。
 今の核家族、夫婦共稼ぎの家庭ではそれが十分にできません。そこで祖父、祖母とともに暮らす三世代が同居する家庭の必要性が出てくるのです。
 事実おじいさん、あばあさんに育てられた子供たちは、優しい子が多いと聞きます。
それは幼い頃親そして祖父、祖母から十分な愛情を注いでもらっているので、愛情飢餓感がありません。十分満ち足りているのです。だから他人に愛情を強要することが少ないのです。
 それと祖父、祖母は前回にも触れましたが、人生の辛酸を味わってこられた人生の達人です。また時間もありますから、この点でもお年寄りの方がゆとりを持って広い心で子供に接することができます。人間急に成果を求められるよりも、広い心で見守ってくれる方がよほど変なプレッシャ-もかからず、失敗しても受け止めてくれる安心感があれば安心して前を向けるのです。
 残念ながら親世代は概して子供を立派に育てようとするあまり、子供にプレッシャ-を与えすぎて逆に子供を苦しめ、自分たちも苛立ってしまうきらいがあります。
 広い心で接しなければと頭では分かっていても、なかなかできないものです。
そういう時こそおじいさん、あばあさんの出番です。

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